COMMON TIME Philosophy-横浜時計物語

横浜時計物語
2025.09.12

第五回
ブライトリングとの戦い – 信頼を勝ち取るまで

ゼニス、IWCと、少しずつ「本当に好きなブランド」を増やしてきたものの、どうしても心の中で引っかかっていたブランドがあった。それが、ブライトリングだった。
機械式時計がまだ今ほどのブームになる前、私は「このブランドだけは、どうしても自分の店に並べたい」と強く願っていた。

だが、ブライトリングとの道のりは険しかった。
気がつけば、交渉は3年にも及んでいた。

最初は正攻法で何度も連絡をした。毎回返ってくる答えは、ほとんど「NO」に近いものだった。「取引実績がない」「今は拡大を考えていない」「あなたの店がブランドの基準に達していない」――あらゆる理由で断られ続けた。
それでも諦めきれなかった。

私は、ブライトリング・ジャパンの取締役Y氏に、繰り返し連絡を取るようになった。最初はもちろんビジネスとしての距離感があったが、いつしかやり取りは人間的なものへと変わっていった。
3年近くも交渉を続けていると、ちょっとした冗談も言えるようになる。「Yさん、私たちはもう馬に人参をぶら下げて走らせてるようなもんですよ。いくら走っても、その人参にはたどり着けないんじゃないですか?」
Y氏は笑いながらも、「いえいえ、決してそういうつもりじゃありませんよ」と真剣な口調で返してくる。
私はこの駆け引きを「人参ぶら下げ作戦」と心の中で名付けた。

だが、どれだけ交渉を続けても、「あともう少し」と言われたまま時間が過ぎていく。
正直なところ、心が折れそうになったこともあった。「これだけ思いを伝えても、届かないものなのか」と悩んだ。
その一方で、「ブランドにはブランドの哲学があり、“本当に好きな人”にしかその扉を開けない」という頑固さも、どこかで理解できる自分がいた。

そんな日々のなかで、時計業界のいろいろなブランドのファクトリーに見学へ行く機会に恵まれた。
2000年4月にはゼニスのファクトリーへ赴き、ロレックス・デイトナの製作室を見せていただいたり、パネライのパーツが転がっているような現場にも遭遇した。2004年にはIWCの工場で「法の番人」と呼ばれる方と食事をし、IWCのケースを削る日本製工作機械“中村とめ”にも会えた(実は機械の名前で、人ではない…笑)。
それぞれのブランドが、自分たちの哲学と伝統を守りながら、時計を作り続けている。
その現場を見るたび、「やはり、自分も“本気のブランド”と本気で向き合いたい」という思いは強まっていった。

ブライトリングとも何度かファクトリー見学に誘ってもらい、スイス本社のスタッフたちの“サプライズ精神”に触れた。「このあと特別なサプライズがあります」と言われて、その内容に毎回驚かされる。
2005年7月、私はフランス空軍出身のパイロットが操縦するチェコ製軍用ジェットL-39Cアルバトロスに同乗し、アクロバット飛行を体験した。「うおー!最高!」と叫んだその瞬間、頭の中から時計のことなんて吹っ飛んでいた。ただひたすら、ブランドが生きている世界を肌で感じていた。

ファクトリーツアーでは、全国の有名店のオーナーや雑誌の編集長とも親しくなった。「取引をするか、しないか」というドライな関係を超えて、“ファミリー”として受け入れられる――そういう独特の空気を、私は少しずつ実感し始めていた。
もしかしたら、ブランド側も私たちを「どこまで本気で向き合うのか」見ていたのかもしれない。

2000年10月、元町のショップをリニューアルオープンする大事なタイミングがやってきた。私は心に決めていた。「この機会にブライトリングを扱えなければ、もう諦める」と。
その想いをY氏にぶつけると、彼はついに「分かりました。やりましょう!」と返事をくれた。
言葉にできないほど嬉しかった。その瞬間、心にあった重しが一気に取れた気がした。

それ以降も、ブライトリングのファクトリーツアーでサプライズは続いた。
2005年にはブライトリングジェットのアクロバット飛行、2010年には元F1パイロットのデレック・ベル氏の運転するベントレー・スーパースポーツの助手席でスイスの峠を駆け抜ける体験…。
これらはすべて、「ブランドファミリーの一員」として認めてもらえたからこそのご褒美だったと思う。

今では、Y氏とお酒を酌み交わしながら「人参ぶら下げ作戦」の笑い話をするのが恒例となった。
あの時諦めずに努力を続けてよかった――
“本当に好きなブランドだけを扱う”、その信念と情熱が、やがて必ず信頼をつなぐと、身をもって知った。