映画「ウォール街」が日本に上陸し、学生の心に熱を灯していた時代があった。
私もその一人だった。大学卒業後、バブル景気の絶頂期に証券会社へ就職した。平成元年、世の中が浮かれていた。
新人の私が毎日、電話をかければ何千万、何億というお金が右から左へと流れていく。そんな景色を当然だと思い込んでいた。
だが、時代は急速に変わっていった。
株も土地も暴落し、人々の顔色がみるみる変わった。「昨日まで当たり前だったこと」が、朝起きると何の保証もなく消えている。
どれだけ資金を持っていようと、どれだけ人脈があろうと、バブルの崩壊は全てを等しく巻き込んでいった。私も翻弄された。その中で強烈に浮かび上がった問いがある――「本当の価値とは何か?」
あの頃の証券会社は、いい意味でも悪い意味でも“勝負師”が集まっていた。毎日が数字の世界。その裏で人の心がどう動くか、世の中の流れがどこに向かうのか、自分なりに必死で考えていたつもりだった。
しかし一夜にして価値観が崩れたあの日、心の奥に何か大きな疑問が残った。
そんな折、私の人生を決定的に変える出来事が起きた。父の急な入院である。
父は宝石店を経営していたが、病室のベッド脇に実印と小切手を置き、入院しながらも仕事から手を離そうとしなかった。
その姿は、幼い頃の父とはまた違う、仕事に人生を賭けてきた男の背中だった。
それまで私は、自分が父の跡を継ぐことなど全く考えていなかった。だが、父のそんな姿を目の当たりにして、自分でも理由は分からないまま「家業を手伝う」という決断をしていた。
自分の人生を賭けるに足るものを、心のどこかで探していたのかもしれない。
正直なところ、最初は戸惑いもあった。父の店は宝石が中心だったが、私自身は昔から洋服や靴、鞄、小物など「身につけるもの」に強い興味があった。
高校時代は原宿や渋谷、元町の古着屋をめぐり、インディゴのジーンズやデニムジャケットを探し歩く。自分の感性を磨くことに夢中だった。クロケット&ジョーンズやオールデンの靴、バブアーのオイルコートやグローブトロッターのトランクなど、“一生モノ”と呼べるものに惹かれた。
ファッションへの興味が、そのまま「機械式時計」への関心へと繋がったのは自然なことだった。時計も、ただ時刻を知る道具ではなく、ファッションの一部であり、その人の美意識や人生観が現れるアイテムだと思うようになっていた。
だが当時、世の中はクォーツ時計全盛。「機械式時計」はほとんど誰も見向きもしていなかった。時計雑誌もわずかしかなく、ネットで情報を探す時代でもない。
私の“時計の師匠”は、元町のアンティーク時計屋の親父だった。無骨でぶっきらぼうな男だったが、目利きとしても、時計の歴史や魅力を語らせても一流だった。
初めて自分で手に入れた機械式時計は、1960年代の14金のジャガー・ルクルト。今もあの質感、重み、指先でリューズを巻き上げる時の音が記憶に残っている。
「これは、ただの道具じゃない」。どこか心の深い部分を満たしてくれるものだった。
横浜の本牧や元町には、独特の文化があった。
小学校の低学年まで過ごした本牧は、まだ広大な米軍住宅があり、「外人ハウス」と呼ばれる一角があった。フェンス越しにアメリカの文化が入り込み、洋楽や車、ファッション、食べ物まで、東京よりも早く新しいものが流れ込んでいた。
本牧のライブハウスで流れるジャズ、横浜を走り抜ける外国車の音。近所の大人たちから聞くリアルな情報。どれもが自分の中に「本物を見極める目」を育ててくれた。
その空気感が、自分の「好きなもの」を妥協しないという性格をつくってくれたのだと思う。
そんな環境で育った私は、次第に「時計を仕事にしたい」と思うようになった。「好きなもの、本当に価値あるものを、世の中に伝えたい」という気持ちがどんどん強くなっていった。
だが、現実は甘くなかった。まだ誰も見向きもしない機械式時計の世界に飛び込むことは、無謀な挑戦だったかもしれない。だが、「これだけは本気でやってみたい」と心が叫んでいた。
バブルが崩壊し、世の中が迷っている時代。そんな時だからこそ「本当に評価されるもの」にこだわりたい。そうして、私の時計物語、そしてCOMMON TIMEの原点が、ここに始まった。