2003年10月27日、私は元町の霧笛楼で少し遅めのランチを食べていた。私の目の前には優しい目を細めて熱心に私に語りかけてくれる初老の紳士が座っていた。この人こそがIWCの頭脳と呼ばれているクルト・クラウスさんその人である。当時の私には、まさかこんな日がやってこようとは夢にも思っていなかった出来事であった。実は私はこの1年ほど前からIWC社にクラウスさんが来日する機会があったら絶対に当店に呼んで欲しいと願い出ていたのである。緊張したというより聞きたいことが山ほどあった。そして、この日をきっかけにこの「横浜時計物語」の舞台上で何かが大きく動き出したのを感じた。
話は少し変わるが、機械式時計を始めたばかりの頃IWCもブライトリングも私の店をまったく相手にしてくれなかったという話は以前にした通りである。しかし、どうしてもIWCを取り扱いたかった私は、当時の日本総代理店にいきなり何のつてもなく電話をしたのである。「すみません、IWCを取り扱いたいのですが・・・」という私の願い出に対して、IWC側の答えは明確であった。「今は、商品がまったく足りない状態ですから、新しいところと取引を始めるというのは考えられません。」電話は冷たく切れた。受話器を握ったまま涙を流した・・・いやいや、涙は流さなかったけど(笑)悔しい思いをしたのは事実である。
今考えると非常識な行動であったかもしれない。しかし、あきらめ切れない私は何とかアポイントだけでも取れないものかと何度も電話をかけたのであった。当然取り合ってもらえない。こうなったら直接行って話を聞いてもらうしかないだろう、ふとそんな考えが浮かんだのだ。迷惑な奴であっただろう。しかし証券会社時代の営業なんてこんなものだった(笑)。当時、新宿の三井ビルの中にあったIWCの日本総代理店をアポなしで尋ねていったのは、その考えが浮かんだ翌日のことだ。受付に置いてある呼び出し用の内線電話のリストを見て、一番肩書きの上だと思われる人を勝手に呼び出してみたのである。
名前を名乗ると、驚くことに相手は私の店を知っていた。きっとしつこい奴がいると思っていたのかもしれない。信じられないことに、応接室に通してくれて話を聞いてくれると言うではないか。私はどれだけIWCが好きかということを、ただただ必死になって話し続けていた。「解りました。そこまで言うのならやりましょう!」「えっ?えっ?今、何って?」・・・1999年11月のことであった。こうしてようやくIWCを扱うことが出来るようになったのである。しかし相変わらずこの時点でのブライトリングは冷たかった。(笑)(第4回の後編に続く)
